みんなネガネをかけている

臨床心理士と小さな塾の先生をやっているOQCの雑記帳。twitterでの発言や考えたことなどをまとめています。

感情コントロールについて1

感情コントロールあれこれ

 

 少し前に、Twitterで感情調整について書きました。
その時の連続ツイートをまとめたものも作っていただきました。

 

togetter.com

togetter.com

Twitterで書いたときからしばらく経ち、書いたものを読み直してみると、分かりにくい部分や説明が不十分な所があることに気が付きました。

そこで、ブログで再度感情コントロールについて書こうと思ったわけです。

Twitterで書いたことの繰り返しになりますが、お付き合いいただけたらと思います。

 

みんな感情に興味がある

1. 感情は何のためにあるのか

 書店を覗くと「感情と上手に付き合う」とか、「怒らない技術」など、感情を扱ったものがたくさん出ています。たくさんの人達が、自分の感情や他者の感情に関心を持っているのだなあと感じます。


さて、感情はよく、ネガティヴなものとポジティヴなものでわけられます。
そして、「ネガティヴは感情は持たず、できるだけポジティヴに明るく生きていこう」なんて言われたりしますね。
それでは、ネガティヴな感情は必要ないのか?なんでこんな厄介なものが存在しているのでしょうか?

 

2. ネガティヴな感情はいらない?


 例えば、高いところから足元を見下ろした時に「恐れ」の感情を抱く人はいるかと思います。
自分がどんな感情を抱いているかの自覚はなくても、足がすくむとか、心臓の音が早くなる、呼吸が荒くなるなどの体の変化を感じる人は多いでしょう。
これは、危機的な状況に置かれていることを、脳が知らせてくれるサインです。
「怒り」に関しても同じです。体を素早く動かして攻撃や退避ができるようにするためのサインのようなものです。これがなければ、危険からいち早く退避して生き延びることは難しくなります。

つまり、ネガティヴという括りにまとめられてしまっている感情にも、大切な役目があるということです。

 

3. ポジティヴな感情はどうなの?

 では、ポジティヴな感情といわれている「よろこび」「ワクワク」「ウキウキ」などの感情はどうでしょうか。楽しい感情やウキウキする感覚は心地いいものですね。

辛い時や悲しいときに、楽しかった思い出が支えてくれることがある。

また、これからの楽しいことを考え、気持ちを切り替えることも有意義です。

よろこんでいたり、ワクワクしていたり、ウキウキと弾んでいる人は楽しそうに見えますね。うらやましいなと思う方もたくさんいるかと思います。
ずっとウキウキ・ワクワク・楽しい状態でいることは幸せなことと言えるのでしょうか。

実はそうではなくて、ポジティヴな感情だけしかないと、人間はかんたんに危険なことをしてしまいます。

2でも書きましたが、「おそれ」「不安」「怒り」などは危険に陥っていることを教えてくれるサインの役割があるからです。

 

4. 必要のない感情はない

 なんだか使い古された言い方ですが、「必要のない感情はない」のです。

ネガティヴに分類されている感情も、ポジティヴに分類されている感情もきちんと役割があります。

詳しくは次の記事で書きますが、感情をないものにしてしまうと、それは、ひずみになっていきます。

「感情」とは、脳が情報を処理する過程で起こる体の変化に人間が名前をつけたものです。「感情」に実態があるわけではなく、そこには生理的な変化があります。

だから、それを無視してしまうと、苦しくなってしまうんですね。

感情の難しいところは、感情を無視しても、その結果がすぐには出てこないところです。

まったく問題がないと思いながら生活、その間にもひずみが蓄積され、ある日ひょんなことから吹き上がってくる。それが感情の扱いづらいところでもあります。

 

5. 感情はコントロールできる

こんな小見出しですが、怪しい高価な教材を売りつける気はありませんので、読んでいただけたらと思います。

感情はある日吹き上がってくることもある、必要でいて厄介なものですが、コントロールして役立てていくこともできます。

次回は本題に入り、感情のコントロールについて書いていこうと思います。


 

 

「逃げる」ということ

 

 ■ 夏休みが終わった
今年も9月1日がやってきて、そして、少し経ちました。暑さは8月と変わらないけれど、吹く風がどこか秋の気配を漂わせている。
気がつけば田んぼの稲には穂がついていて、雲が高くなった。空の色も真夏よりは少し薄くなって、蝉の姿よりも飛び交わすトンボの方が目につくようなっている。そんな時期です。
私は学校と呼ばれる所を卒業して随分経ちましたが、この頃になると焦りのような、何かに無理やり背中を押されるような居心地の悪さを感じます。冬から春に移り変わる時、春から夏に移り変わる時よりも緊張を感じるような気がします。

この時期は同じような気持ちを抱えて学校に行ったかもしれない子たちのことを考えます。

■ 逃げるということについて
さて、そんな8月の終わりころ、Twitterでは「逃げる」ということについて様々な意見が交わされていました。


 

この記事やTLに流れてくる様々な人の経験や、意見を見て、そして考えながら、私もこれについては書きたいことがありました。

ただ、それをそのまま文字に載せてみたときに、どうにもしっくりこない感じがあって、時折こねくり回したり、寝かせたりしながら一週間が過ぎていきました。

 

■「何から逃げる」のか

  まず、私が考えていたことの一つとして「何から逃げる」のかということがあります。

ほとんどの場合が、集団から逃げるということになるでしょう。集団を構成する特定の個人ということもありますが、結果的には集団から逃げるという形になります。

人間は大小様々な集団に属しています。

もっとも大きな集団としては「地球内生命体」だと思います。わかりやすい例なら会社・学校・クラスなど。

集団というのが曲者で、生涯ただ一つの集団に属せばいいのかというとそうでもありません。

家族という集団、学校という集団、友達という集団……様々な集団に重複して属しながら、私たちは日々を生きていきます。

集団は様々な人々からできていますから、軋轢もあります。時としてその中のどこかで、理不尽で耐えられないような出来事を経験したり、疎外感を抱いたりする。心身ともに裂かれそうな時や、すでに疲弊しきってしまっている時集団から距離を置くことは身を守るための「戦略的な撤退」として必要であると思います。

 

 

■ 「どこへ逃げる」のか

  逃げることに対して否定的な意見を持つ人たちの言葉の中に「逃げて全部うまくいくと思っているのか」というものが度々登場します。身を守るために逃げてきた人、避難してきた人たちにとっては非常に酷な言葉であると思います。そして同時に、その中にほんの少し真実が潜んでいることもあると思うのです。

もちろん、この言葉だけを取り出して全肯定しようという意味ではありません。

 

■  逃げた先に完璧な楽園はあるのか

  私も経験があるのですが、苦しい場所から逃げた先にすべての救済があるように感じてしまうことがあります。

逃げた先にある場所は、自分を丸ごと受容してくれて、自分を傷つけることはなく、まったく変わらないまま自由に振舞うことができる。そんな楽園のような場所だと思い込んでしまうことがある。そして、抱いた理想と、その場所が合致しなかった時なんだかひどいショックを受けてしまう。そしてまた次の楽園を探してあてもない旅に出てしまう……。

人と人とが交流する以上、自分の言葉や振る舞いが自覚なく誰かを傷つける可能性はあります。自分にその意図がなくても、誰かを怒らせてしまうこともあるかもしれません。

どんなに素晴らしい環境であっても、全く少しも心揺らがずにいられる場所はあるのでしょうか。

心穏やかに過ごせる場所は、全くすれ違いのない完璧な場所というわけではないのだと思います。

 

 

■  それでも、逃げることは間違いではない

  楽園などないのだから、逃げてはいけないのか?それに対しては、きっぱりと違うと言えます。

不必要に傷つけられることのない場所に身を置くことは、生き延びるために必要なことです。

私が言いたいのは、安全なところに逃げ延びて、落ち着いて、そしてその場で必要なものに目を向けてほしいと思うのです。

目を向けるものは、人にとって少しずつ違います。自意識であったり、批判との向き合い方、人との距離の取り方、あるいは自己主張のし方、様々なものがあります。

心身ともに疲れ果ててしまっている時には、その疲労を解消させることが優先されます。

危険を感じて安心できない集団では、身を守るのに精一杯で、自分の内面に目を向けていくことまでは余裕は持てないと思います。

だから、たどり着いた場所で十分に落ち着いて、力が湧いてきてからでいいと思います。

あるいは、周りの影響を受けない避難場所で心身の回復を優先させるのもいいと思います。

次の項で書きますが、疲れ果ててしまった時に、自然の多い場所などで一時暮らすという、湯治の役割ですね。

そうして歩き出して、次の場所を探してみたくなった時、自分に向き合ってみる必要が出てくる。

言い換えれば人と人と関係の間で浮き出してくるものを自分に返していく作業ともいえるのではないでしょうか。

 

■「自分探し」とはなんだったのか

  数年前、「自分探し」という言葉が流行したのを覚えています。「本当の自分」を求めて、海外を一人旅したりすることがブームとなりました。

私は、「自分探し」とは、自分の内なるものに目を向けるということだったのではないかと思っています。自分の皮を玉ねぎのように剥いていって、中核に見たこともない素晴らしいものが眠っているという意味ではないと思うんです。

自分の中にある、様々なものを再度自覚し、これからの行動を組み立てていくことが「本当の自分探し」の意味なのではないかなと考えています。だから、別に海外に一人旅することが必須ではないし、何か特別な準備が必要なことでもないと思うのです。

  それから、もう一つ。私が中学生くらいの時に、「不登校になったら小笠原に行け」という言葉が一時的に流行しました。あと、「ハッピー・バースデイ」 という児童文学が流行ったのもこの頃です。心に傷を抱えた少女が自然の中で再生していく物語でした。

この流行から「自然がすべてを癒す」というような考えが広まりました。しかし、果たして癒したのは「自然」だったのかは疑問です。

誰にも傷つけられることのない環境に、しばし身を置いたこと、それ自体に安心を与える効果があることは確かと思います。

むしろ、その先で、自然の中で安心を取り戻した彼や彼女たちが、自分と人々との関わりについて考え、再び関係を築いていったことにこそ注目すべきなのではないかと思うのです。 

ハッピー・バースデーで描かれていたのも、その部分だったと記憶しています。

自然に囲まれた場所で様々なことを考え、自分について考え、時には自分の抱えるネガティヴなものにも直面して、そして得たものがあったのではないかと、私は考えるのです。

 

■専門家の力も借りてみる

自分と向き合う。そのために専門家の力を借りるという手もあります。

世の中にはそのために作られた技法がたくさんあります。

 

自分にとって心が落ち着いて過ごせる場所や環境で、時にネガティヴなことに直面したり、感情が揺らぐことがあっても過ごしていけること、それが、その先での次の目標になってくるのかなと思いました。その中には、無理しない範囲を見極めることなども含まれています。

 

■  せっかくなので読書感想文も提出してみる

 

 

ここから始まる一連のツイートにも書いてあるのですが、この漫画はまさに一時の「逃げ場」と、そしてその先にあるものを描いています。

楽園を夢見てそこに閉じこもる者、偽物の楽園を出て自分と向き合う者、とりあえず衝動的に出て行く者。向き合わざるをえなくなって迷う者……。もしかしたら、どの登場人物も自分の心の中にいるのかもしれません。

 

 

文章を学ぶ前に~会話と文章~

お話はとても流暢なのだけれど、作文になると固まってしまう。自分が最も伝えたいと思ったことがうまく書けない。テーマ作文で、テーマを取り違えてしまう。

こういったことで困っている子どもたちは意外とたくさんいます。

この記事では、なぜ作文は難しいのかということについて書こうと思います。

 

■ 話せるけど書けない?

  あなたの友人に、長く英語圏に住んでいる友人がいるとします。

その人が、ある日こんなことを言いました。

その友人には書字の困難はないものと仮定してください。

 

「私、英語は話せるんだけど書けないんだよね」

 

さて、この一文を読んで、みなさんはどのように考えるでしょうか。

おそらく、そこまで不自然に思う方はいないのではないかと予想されます。

文法に則って書く文章と、話すときに使う言葉に違いがあることを経験の中でわかっています。

英語の習得を目的とせずに海外に行った人の場合、日常的な会話のなかで英語を学習する機会が多いだろう。そのため、書くことよりも会話の習得が促進されるのはそれほど不自然なことではない、と考えるわけです。

 

■ ちょっと見方を変えてみて

 これは、はたして外国語に対してだけ言えることでしょうか。

個人差はあるかもしれませんが、私達が本格的に文章というものに触れ、それを自分で読み書きするのは小学校に入学してから。しかも、一人で文章だけの本を読めるようになるのはおおむね10歳くらい。絵本と児童文学の中間くらいだろう「かいけつゾロリ」でも対象となるのは中学年の児童からだそうです。

つまり、子どもたちにとって、もっとも身近な「言葉」というのは「読み書きする言葉」ではなく「話す言葉」だといえると考えられます。

 

■ わたあめとブロック

では、読み書きする言葉と話す言葉はなにが違うのでしょうか。

私は、話し言葉は「わたあめ」書き言葉は「ブロック」

そんな風に考えています。

 

・ わたあめ

まずは、話し言葉。どこが「わたあめ」なのでしょうか。

ちょっと例を書いてみます。

 

「私ってさあ、猫アレルギーなの知ってるよね。昨日、学校帰りに猫見たんだ。白いの。ふわふわ。すごいかわいくてさ、連れて帰りたかったんだけど、無理じゃん?」

 

特に読解に苦労することはないかと思います

「帰り道で猫を見つけたのだが、猫アレルギーなので飼うことができない」という内容です。

この人は、猫がいかに可愛かったかを説明しています。

「昨日、学校帰りに見たんだ。白いの。ふわふわ。すごいかわいくてさ」

「白い」、「ふわふわ」、「すごいかわいい」、いずれも猫を説明しています。

猫という単語を後ろから補足して説明しているんですね。

「連れて帰りたかったんだけど、(私ってさあ、猫アレルギーなのは知ってるよね)無理じゃん?」

そして「無理じゃん?」の理由は、冒頭の「私ってさあ、猫アレルギー……」と関連しています。つまり、前で言った部分を関連させて理由を説明している。

 

会話では、物事の理由や補足の順番に規則性がほとんどないのです。

この場合なら、「猫を見た」という中核の話題に、前から後ろから、自由に情報を付け足しています。そして、情報ははどんどん大きくなっていく。ここが「わたあめ」に似ています。

わたあめは、溶かした砂糖を細い糸状にして割り箸にまきつけて作ります。

この割り箸が話題・会話のテーマだと考えてください。ここでいえば、「猫について」ですね。それに、くるくると細い糸状の情報が巻き付いていくイメージ。細い糸ですから。後ろのものが前のものにくっつくこともありますし、よじれて前後の区別なく、くっついていくこともあります。そうしてふわふわ、ふわふわと膨らんでいく。

とはいえ、あまりに巨大なわたあめになると、情報の修飾の関係がわからなくなってしまうこともあります。どうにも容量を得ない、ややこしい話をする人のわたあめはとてつもなく巨大。話は長いけれど、飽きない話ができる人は、一定の大きさになると新しい割り箸(話題)を用意して、いくつものわたあめを作れるようなイメージを私は持っています。

 

・ ブロック

 一方、書き言葉は「ブロック」だと言えるかもしれません。

「私ってさあ、猫アレルギーなの知ってるよね。昨日、学校帰りに猫見たんだ。白いの。ふわふわ。すごいかわいくてさ、連れて帰りたかったんだけど、無理じゃん?」

これを、特に言葉の順序を変化させずに書き言葉に直してみます。

「私が猫アレルギーなのは知っているかと思います。昨日、学校帰りに猫を見ました。白いです。ふわふわです。とてもかわいくて、連れて帰りたかったけれど、無理でした」

うーん。なんだか不自然。ちょっとぎこちなさをかんじませんか?

「あっ、こういう作文見たことある」という方もいるかもしれません。

また、「小さい頃こういう文章を書いたなあ」と思い出した方もいるかもしれません。

では、これはどうでしょうか。語順を入れ替え、ちょっと主語を補足してみます。クラス全体に向けて発表する作文という体裁で書いています。

「クラスのみんなは、私が猫アレルギーなのは知っているかと思います。昨日、私は学校の帰りに猫を見ました。猫は白く、ふわふわしていました。とてもかわいくて、連れて帰りたかったけれど、猫アレルギーがあるので無理でした」

いかがでしょうか。ずいぶん変わり、理解しやすい印象になったと思います。

やったことは修飾の順番を守ったことと、主語の補足だけです。

文章では、基本的に「白い→猫」「ふわふわの→猫」という修飾の順番に決まりがあります。(「」内の話し言葉などを除く)

そして、主語と述語は対応しなければなりません。

ここが、レゴブロックのようなものと似ています。ブロックの凸と凹が噛みあうものしか積むことはできないのです。わたあめよりもかっちりとしたものが出来上がります。

 前回の記事に書いた「伝えるための文章」という点においても、ここは重要です。

 

■ ブロックの遊び方を知らない子がお城を作れるのか問題

 今までレゴで遊んだことのないお子さんに、いきなりレゴを1000ピース渡して、「シンデレラ城作って」と言ったらシンデレラ城は完成するでしょうか。

ものすごいイメージ力と直感をもった子であればできるかもしれませんが、殆どの子が無理だと思われます。

しかし、レゴの原理(凸と凹をくっつける)とお城の作り方の紙があれば、いつかは完成します。

文章もこれと同じで、構造を知り、設計図を見ることができればもっと楽に作れるようになると思います。

 ところが、「本をたくさん読めば文章が書けるようになる」「テレビやネット、漫画などの受動的なメディアを制限すれば文章が書けるようになる」「作文テンプレートは子どもの自由な発想を奪う」というような意見がよく見られます。

個人的な意見としては、そこじゃないんだけどなあ、という感じです。

まずは、文章の基本構造を子どもたちが知り、話し言葉とモードを切り替えられるようになることが最初じゃないかと思います。そして、それが自分の書きたいことを書けるモチベーションに繋がってくれるといいなと思います。

この基本が身につくと、読書からの文法や語彙の吸収率にも変化が出てくると思います。

くだけた文体で書かれている小説も、ライトノベルも、学術書も書いてある文章の構造の基本は変わりません。ただ、魅力的になるような小技やエッセンスが散りばめられていることにも気がつけるかと思います。

 

 

文章を書くための力とは何なのか

  久しぶりの更新です。

夏の暑さで我が家の8年もののルーターがやられ、慣れないアプリからの出発となりました。

 

■  文章力とは何か?

  いきなりですが、「文章力」ってなんでしょうか。

正しく句読点を使える力?魅力的な言葉を使える力?それとも語彙が多いこと?

 そのどれもが正解なのだと思います。

書店を探せば、それぞれの視点から書かれた、文章力向上のための本が驚くほどたくさん見つかります。

文章力という言葉はいくつもの見方ができるが故に、曖昧なものになっています。だから、なかなか手に掴めない。

しかしどうやら大切なものらしい。

掴めないものをどうやって伸ばしていけばいいのだろう?

答えを出すには難しい問題です。

 

■  日経新聞オンラインより

http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXKZO05615580T00C16A8X12000/

  要約すると、今本当に必要なのは、日本語を読み解く力なのではないかというような内容の記事です。

この中では、書いてあることを正しく読み取れることの大切さが主張されています。

ここに、「文章力」のひとつのヒントがあるように思えます。

 

■  そもそも、「文章」ってなんのためにあるの?

  少し戻って、「文章」について考えてみます。

人はなぜ文字を生み出し、文章を生み出したのでしょうか。

文字は、おしゃべりして情報を伝え合うことの代わりに使われます。口伝えでは誤解を生みそうな時、話して聞かせることができる人数よりも多くの人に伝えなければならない時などが文章が使われる場面かと思います。

何故なら、口から出た言葉は、聞きちがえられたり、あるいは誤解されたまま他者に伝えられるなどして、内容が変化してしまうことがあります。

しかし大切な情報が変化してしまっては困ります。誤解や聞き違いなく、できるだけ長く情報を保存できますように。そんな願いから、文字が生まれ、残されたのかもしれません。

  つまり、文章は相手に物事を伝えるためのツールだと言えるかもしれません。 言い換えれば、コミュニケーションツールだということですね。

 

■  コミュニケーションのための文章力

  我々が書く文章は、メモや日記、備忘録を除くと、他者に読んでもらうという目的があるものが圧倒的に多いかと思います。

報告書、レポート、小論文、テストの論述にいたるまで、誰かに見せ、読ませることを必要とします。

その時に、大切なことはなんでしょうか。

ここでやっと、先に引用した記事の件と話が繋がります。記事の中では「正しく読む」ことが主点となっていましたが、対になることとして、「正しく書く」ことがあるかと思われます。

この、「正しく書く」ということの意味は、厳密に正しい文法を使うことではなく、むしろ「誤解なく読んでもらえる」ということの方が重要になるのではないでしょうか。

 

■  問題です

 

今私が書いた文章を例にとって考えてみます。

『この、「正しく書く」ということの意味は、厳密に正しい文法を使うことではなく、むしろ「誤解なく読んでもらえる」ということの方が重要になるのではないでしょうか。』

私が必要であると主張しているのはどちらでしょう。

A『厳密に正しい文法を使うこと』

B『誤解なく読んでもらえる文章を書くこと』

 

伝えるためのツールとして必要な文章は、こういった問題を出した時に、よりたくさんの人が正答を選べるものだと思います。

(さて、私の文章はコミュニケーションツールとして機能しているのでしょうか)

 

■  結局、コミュニケーションツールとしての良い文章ってなんなのよ

  以上のことを踏まえて考えてみると、大切なのは多彩な語彙を使うことや、凝った言い回しを使えることではないと考えられます。

伝えるべきことを確実に伝えること。そこにコミュニケーションとしての文章を書くことの基本、そして本質があるのではないでしょうか。これは同時に、正確な読み取りにも繋がります。コミュニケーションはキャッチボールに例えられますので、投げ手がいれば受け手もいるのです。

そして、これらを使いこなせるようになった時には、外国語の勉強にも活かせるものになるのではないかと考えられます。

 

■  予告

次の記事からは、そういった文章力をどのように身につけるのかについて、私の意見を書いていこうと思います。主に、Twitterに上げたものの焼き直しになるかと思います。

Twitterではこのあたりのことを今後もとりとめもなく書いていきますので、そちらも合わせて読んでいただけると、とても嬉しいです。

ご意見、ご感想もお待ちしています。

https://mobile.twitter.com/OQCeeee/status/763063323084468225

 

みんなメガネをかけている のか?

変なタイトルをつけてみました。

このタイトルには色々な意味があります。

私たちは誰もが自分のメガネのレンズを通して世界を見ているんだと思います。

生きてきた歴史や、環境や、信念や、知識、他にもまだまだあるとは思いますがそういったレンズを通して世界を把握してるのではないかと思うのです。

そして、時折、他の人のメガネに入っているレンズを貸してもらって、「あ、見えやすい」となったり、それを使って自分のレンズを調整したりして生きているのではないかと考えることがあります。この、レンズの貸し借りがコミュニケーションのひとつの側面ではないかとも。

このブログでは、OQCeeeがかけているメガネから見える世界を書いてみようと思います。