みんなネガネをかけている

臨床心理士と小さな塾の先生をやっているOQCの雑記帳。twitterでの発言や考えたことなどをまとめています。

夏休み読書感想文スペシャル

読書感想文が書きやすくなる(かもしれない)メモを公開しました。 空欄が小さい場合は拡大コピーなどをよろしくお願いします。 急いで作ったので、誤字などは随時修正します。 縦書きバージョンはもう少しお待ちください。

読書感想文用メモ

Word  https://drive.google.com/file/d/0B0zzxoAMx_AHR2FTaEZzLTJkeEE/view?usp=sharing

PDF

https://drive.google.com/file/d/0B0zzxoAMx_AHaVVKaHU2M2xoVU0/view?usp=sharing

読書感想文 見本

https://drive.google.com/file/d/0B0zzxoAMx_AHSnM3Qlg5YnRuaXM/view?usp=sharing

感情コントロールについて 4 

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さて、今回で感情コントロールについての話は最終回です。

感情を他者に受け止めてもらう

おそらく、感情のラベリングということを考えたことがなくても、怒り・悲しみ・苛立ち等の感情は自覚されている方がほとんどだと思います。 それは、今まで成長してきた過程で、誰かに感情を受け止めてもらい、そして言語化してもらっていからだと考えられます。 まだ小さな子どもの頃、最初に感情を表現したときに「うれしいのね」、「怒ってるんだね」等周りの人達が言語化してくれたものがラベリングの基礎になっています。 また、他者から音声言語として言葉にしてもらったものだけでなく、身近な人の体験を聞いたり、メディアから取り込んだ知識もラベルとして活用されていると思います。

感情が受け止められないとき

最初の感情のラベルは他者に言語化してもらうことでできていくと書きましたが、それがうまくなされなかった時はどうかという話をしようかと思います。 ブラック企業の話で聞くのが「つらい」と言うと「つらいのはお前だけではない」と叱責されたり「そんなのはつらい内に入らない。もっと頑張れ」と根性論を押し付けられたりというものです。 自分が感じた感情を人に受け入れてもらえないとき、人は葛藤状況に陥ります。 自分はつらいのか、つらくないのか、それがわからなくなり、現実感がなくなっていきます。 自分がつけた感情のラベルを他者が否定すると、その感情をないものとして扱ってしまいがちになる。心と体は地続きですから、それが続くと、心身の不調として表れることもあるかと思います。 自分で自分の感情にラベルをつけること。それを他者に受け入れてもらう。これが共感の基礎にあると考えられます。

感情を「受け止める」って大変じゃない?

「受け止める」という言葉には、その人のすべてを許すというようなイメージがあります。 実際にはそうではなくて、他人の心のなかにその人が表現した感情があることを認めるだけでいいのだと思います。 言い換えれば、感情を否定しないこと。 その人が悲しいと言えば、「悲しんだ」と認める。「怒っている」といえば、「怒ってるんだ」と認める。 特に小さな子どものうちは、これが大切になります。 その感情が自分の中にあることを認めてもらえない限り、気持ちを切り替えることもできないからです。

気持ちを切り替えてもらいたくなるよねーという話

とはいっても、身近な人であれば身近な人であるほど、悲しんでいる姿は見たくないものです。 つい「元気になるにはないしたらいい?」とか「泣かないで」と言ってしまいたくなる。 しかし、自分の気持ちにラベルをつけることは本人にしかできません。 周りの人は、ラベルの材料になるように言語化のお手伝いをしたり、ラベルが上手に確認できるように受け止めることをすることで十分です。

自分の気落ちのラベル付けに困ったときは

どうやっても自分の感情がわからない、感情と向き合うととても怖い。そんな人もいると思います。 長年感情を蔑ろにされてきた人は、途方に暮れることもあるかもしれません。 自分の感情に名前をつけ、ネガティブな感情と歩んでいくためには時間も経験も必要です。 カウンセリングや心理療法の多くが、そのお手伝いをするときに役立ちます。 自分では難しいと思う時は、専門家の力を借りてみることもおすすめします。

インサイドヘッドを観よう!

最後に、「インサイドヘッド」という映画をおすすめします。 感情を擬人化し、それぞれの役割をユーモラスに解説しています。 とても心理学的なテーマなのに、説教臭くない。見終わったときに、自分の感情が大切に思える、そんな映画です。 Huluでも配信しています。

感情コントロールについて 3

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感情って何?

自分の感情をとらえる時、自分がどんな感情を感じているのかを意識することが必要になってきます。 どうしてそれが必要になるのかということを説明するために、感情というものが自分の中に生まれる時、どんなことが頭の中で起きているのかを書いてみたいと思います。 まず、私たちがとても「びっくりする」経験をしたとします。 夜中にトイレに起きて、トイレのドアを開けたら、ゴキブリが飛び出してきたとします。

「あーびっくりした」と感じた時、一瞬のうちに頭の中では以下のようなことが起きていると考えられています。

体が危険を感じて臨戦態勢に入る

ゴキブリが視界に入った瞬間、私たちの体は血流が増加し、心拍が上がり、他にも緊急の事態に備え、体を素早く動かすための準備をします。 これは、私たちがまだ原始人で、マンモスやヘラジカを追って生活していた頃から体の中で起きていた変化です。 その時代では敵に襲われたときに、すばやく体を動かして逃げ延びたり、獲物を確実に捕まえるために必要な体の生理的な変化でした。 しかし現代では街を歩いていて虎に襲われるなどということはありません。 だから、ずっと臨戦態勢のままでいる必要はありません。

脳は体の状態を適切に判断して落ち着かせようとする働きをする

臨戦態勢だった体の状態がもとの状態に戻るとき、脳の一番外側のしわしわの部分が働きます。 この、しわしわの部分は大脳皮質といいます。チンパンジーやボノボなど、霊長類やヒトでのみ発達した部位だそうです。 ここがどんな働きをして臨戦態勢にある体を静めていくかというと、「ことば」によって状況を評価します。 先の例でいえば、一瞬のうちに「ゴキブリは気持ち悪いけど、噛むわけでも攻撃してくるわけでもない」という評価を行います。 すると、その評価に従って、体の状態は平常時に戻っていきます。

大脳皮質以外の脳の部位、生命活動を司る脳幹や情動に関連する大脳辺縁系という部分なども感情には関連します。 この2つの部位が大まかな感情を伝え、それを大脳皮質は細かく評価します。 簡単にいうと、ある出来事に遭遇し、感情がわき上がったとき、その感情を評価しているのは脳のしわしわの部分です。ざっくり言うとね。

評価とラベリング

どうしてこの評価が大切なのかというと、評価することで私たちは感情をうまく付き合っていけるからです。 私たちは名前のないものを呼ぶことはできません。 名前がついて、その名前と対応する状態を理解して初めて、私たちは感情を受け止めて、さらにそれに振り回されなくなっていきます。 怒っているという状態がわからなければ、怒りを静めることはできません。 嬉しい状態と怒っている状態の区別ができなければ、本当は怒っているのに「嬉しい」と言ってしまう。 これはとてもしんどいことです。言葉になることで、今自分が平常時とどのくらい離れていて、どうすれば落ち着いた気持ちになれるのか考えることができます。

言葉にならない感情たちをどうする?

そうはいっても、すべての状況で大脳皮質がうまい具合に働いてくれるかというと、そうでありません。 なんとなくモヤモヤしてる、なんとなくイライラしている。 体の中の不快感を感じてはいるものの、それに名前がつかない。しかもその原因もよくわからない。そんな時もあります。 そういった時は、イライラしている、ムカムカしている、なんだか腹の虫の居所が悪い。そんな言葉で、自分で受け止めてみるのかいいかもしれません。 自分で自分の感情を受け止めるのに、遠慮することはありません。ムカムカかイライラかわからないけど、なんか居心地が悪い。そういうのでもいいです。 ムカムカした感じ、イライラする感じを認めることで、体が落ち着いた状態へ戻る道筋が示されます。

しんどい感情をどうする?

悲しみや怒りというのは自覚するのにエネルギーを使います。 だから、最初は「楽しい」という感情から考えていくといいかもしれません。 好きなことをしているとき、体の状態はどんな感じか、どんな感覚か。その感覚に感情のラベルを貼ってあげるとしたら、何という名前にするのか。 ここにたくさんの語彙は必要ありません。今は楽しさのレベルで言えば何レベルか。そういうことを少し意識してみることで、少しラベルをつける作業が楽になるかもしれません。 「感情コントロールについて2」でも書きましたが、落ち着いた状態を意識して、ラベリングすることもいいと思います。

今回はここでいったん終了。 次回はもう少しラベリングの話。次回で感情コントロールの話は終わります。

感情をコントロールについて 2

すっかり久しぶりの更新になってしまいましたが、前回の続きを書いていきたいと思います。 前回は感情の役割について書きましたが、今回は感情をコントロールすることについて書いていこうと思います。 今回は感情について触れていきますので、読んでいる途中で気持ちが落ち着かなくなったりした方は、そっとブラウザを閉じていただきたいと思います。 感情は身体と密接に結びついていますので、体が元気なときに読むのがいいです。 寝不足のとき、疲れているときなど、そういった時は避けるといいかと思います。

感情をコントロールするとは

「感情をコントロールする」ということは、特定の感情を働かないようにしたりすることではありません。 怒りや悲しみをまず受け入れて、それを自分の中で扱えるようにするというようなことが、感情のコントロールです。 例えば、悲しみを感じ眠ることも食べることもできなくなってしまったとしましょう。 そうなると、感情が自分の生命を脅かしてしまうことになりかねません。 自分の心身の健康が守れるように、自分の感情と向き合うこと。それが感情のコントロールと言えるかと思います。 よりよく感情をコントロールするために、心の専門家である精神科医やカウンセラーの力を借りることも大切です。 自分の力だけで出血や汗をコントロール出来ないように、感情のコントロールも自分ひとりだけでは難しいことも多いです。 ここでは、感情をコントロールする時、こんな風にできるといいかもしれないというようなヒントを少し書いていきます。 これが全てではありませんし、自分ひとりでやろうとしなくてもいいです。感情について悩んでいる人へのヒントになれば幸いです。

まずは感情を否定しないこと

怒りや悲しみを感じたとき、なんとかしようと思っている人ほど「こんなこと考えちゃだめだ」と思ってしまいがちです。 日本では、怒りや悲しみを率直に表現することがあまりありません。 また、常に明るい話題を提供することや前向きでいることが評価される場が多いため、怒りや悲しみは押し込められやすい。 その感情をなかったことにして、切り替えていかなければやりきれないこともあるかもしれません。 しかし、「なかったこと」にした感情は消えてなくなったわけではありません。 記憶の奥深くに埋もれて、掘り出される日を待っています。 そして、似たような状況である日どっと吹き出してくるかもしれません。 私たちは「感情」を心の中のものだと捉えていることが多いですが、感情の正体は心拍や血流、脳内の伝達物質などです。 つまり、一種の生理現象でもあるため、自分の力で止めることはとても難しいんです。 暑いときに吹き出す汗を自分の意思で止めることはできませんし、転んで擦りむいた膝から出てくる血を自分の意思で止めることもできません。 この状況で、「自分は汗なんかかいていない」「膝を擦りむいてはいない」と事実を否定しようと思う人はあまりいませんよね。 汗をかいたならタオルを用意して拭けばいいし、まだ気持ち悪ければシャワーを浴びればいいです。怪我をしたら消毒して絆創膏を貼ればいいんです。 感情コントロールは、汗を拭くタオルや怪我したときの絆創膏のようなものです。 だからまず、自分の感情をなかったことにしないことが必要なのだと考えられます。

「自分は今何を感じているのか」の前に

「感情を否定しないこと」を語るためには、今、自分がどんな感情を持っているのか自覚する必要があります。 これが実は結構難しい。怒ってる、イライラしてる、ムカムカしてる、悲しい、そわそわしている、嬉しい、歓喜する……などなど、感情を表す言葉は非常に種類が多い。 この中から選んで当てはめるのは大人でも大変ですし、まだ語彙の少ない子どもたちの場合、より大変になります。 その前に、おさえておくといいことがあります。 それが、「気持ちが落ち着いている」「ゆったりしている」という状態です。 何かで心乱れても、その状態に戻ってくれば安心。そういう状態を感覚としてわかっていること。それが感情コントロールの基礎にもなります。 大きく深呼吸を繰り返して、心拍が落ち着いてきたときの感じや、お風呂に浸かって体の力が抜けているときの感じ。ヨガやストレッチが日課の方は体が伸びているときの感じ。 その時の心地を意識して見てください。指標があったほうがわからいやすい方は、心拍計などを利用してみるのもいいかもしれません。 あくまでも一例ですが、「心拍が80以下に落ちている状態」など、指標を決めるといいかもしれませんね。 最近は腹式呼吸のアプリなどがリリースされているので活用するのも手かもしれません。

では、次は「感情コントロールについて3」に続きます。

感情コントロールについて1

感情コントロールあれこれ

 

 少し前に、Twitterで感情調整について書きました。
その時の連続ツイートをまとめたものも作っていただきました。

 

togetter.com

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Twitterで書いたときからしばらく経ち、書いたものを読み直してみると、分かりにくい部分や説明が不十分な所があることに気が付きました。

そこで、ブログで再度感情コントロールについて書こうと思ったわけです。

Twitterで書いたことの繰り返しになりますが、お付き合いいただけたらと思います。

 

みんな感情に興味がある

1. 感情は何のためにあるのか

 書店を覗くと「感情と上手に付き合う」とか、「怒らない技術」など、感情を扱ったものがたくさん出ています。たくさんの人達が、自分の感情や他者の感情に関心を持っているのだなあと感じます。


さて、感情はよく、ネガティヴなものとポジティヴなものでわけられます。
そして、「ネガティヴは感情は持たず、できるだけポジティヴに明るく生きていこう」なんて言われたりしますね。
それでは、ネガティヴな感情は必要ないのか?なんでこんな厄介なものが存在しているのでしょうか?

 

2. ネガティヴな感情はいらない?


 例えば、高いところから足元を見下ろした時に「恐れ」の感情を抱く人はいるかと思います。
自分がどんな感情を抱いているかの自覚はなくても、足がすくむとか、心臓の音が早くなる、呼吸が荒くなるなどの体の変化を感じる人は多いでしょう。
これは、危機的な状況に置かれていることを、脳が知らせてくれるサインです。
「怒り」に関しても同じです。体を素早く動かして攻撃や退避ができるようにするためのサインのようなものです。これがなければ、危険からいち早く退避して生き延びることは難しくなります。

つまり、ネガティヴという括りにまとめられてしまっている感情にも、大切な役目があるということです。

 

3. ポジティヴな感情はどうなの?

 では、ポジティヴな感情といわれている「よろこび」「ワクワク」「ウキウキ」などの感情はどうでしょうか。楽しい感情やウキウキする感覚は心地いいものですね。

辛い時や悲しいときに、楽しかった思い出が支えてくれることがある。

また、これからの楽しいことを考え、気持ちを切り替えることも有意義です。

よろこんでいたり、ワクワクしていたり、ウキウキと弾んでいる人は楽しそうに見えますね。うらやましいなと思う方もたくさんいるかと思います。
ずっとウキウキ・ワクワク・楽しい状態でいることは幸せなことと言えるのでしょうか。

実はそうではなくて、ポジティヴな感情だけしかないと、人間はかんたんに危険なことをしてしまいます。

2でも書きましたが、「おそれ」「不安」「怒り」などは危険に陥っていることを教えてくれるサインの役割があるからです。

 

4. 必要のない感情はない

 なんだか使い古された言い方ですが、「必要のない感情はない」のです。

ネガティヴに分類されている感情も、ポジティヴに分類されている感情もきちんと役割があります。

詳しくは次の記事で書きますが、感情をないものにしてしまうと、それは、ひずみになっていきます。

「感情」とは、脳が情報を処理する過程で起こる体の変化に人間が名前をつけたものです。「感情」に実態があるわけではなく、そこには生理的な変化があります。

だから、それを無視してしまうと、苦しくなってしまうんですね。

感情の難しいところは、感情を無視しても、その結果がすぐには出てこないところです。

まったく問題がないと思いながら生活、その間にもひずみが蓄積され、ある日ひょんなことから吹き上がってくる。それが感情の扱いづらいところでもあります。

 

5. 感情はコントロールできる

こんな小見出しですが、怪しい高価な教材を売りつける気はありませんので、読んでいただけたらと思います。

感情はある日吹き上がってくることもある、必要でいて厄介なものですが、コントロールして役立てていくこともできます。

次回は本題に入り、感情のコントロールについて書いていこうと思います。


 

 

「逃げる」ということ

 

 ■ 夏休みが終わった
今年も9月1日がやってきて、そして、少し経ちました。暑さは8月と変わらないけれど、吹く風がどこか秋の気配を漂わせている。
気がつけば田んぼの稲には穂がついていて、雲が高くなった。空の色も真夏よりは少し薄くなって、蝉の姿よりも飛び交わすトンボの方が目につくようなっている。そんな時期です。
私は学校と呼ばれる所を卒業して随分経ちましたが、この頃になると焦りのような、何かに無理やり背中を押されるような居心地の悪さを感じます。冬から春に移り変わる時、春から夏に移り変わる時よりも緊張を感じるような気がします。

この時期は同じような気持ちを抱えて学校に行ったかもしれない子たちのことを考えます。

■ 逃げるということについて
さて、そんな8月の終わりころ、Twitterでは「逃げる」ということについて様々な意見が交わされていました。


 

この記事やTLに流れてくる様々な人の経験や、意見を見て、そして考えながら、私もこれについては書きたいことがありました。

ただ、それをそのまま文字に載せてみたときに、どうにもしっくりこない感じがあって、時折こねくり回したり、寝かせたりしながら一週間が過ぎていきました。

 

■「何から逃げる」のか

  まず、私が考えていたことの一つとして「何から逃げる」のかということがあります。

ほとんどの場合が、集団から逃げるということになるでしょう。集団を構成する特定の個人ということもありますが、結果的には集団から逃げるという形になります。

人間は大小様々な集団に属しています。

もっとも大きな集団としては「地球内生命体」だと思います。わかりやすい例なら会社・学校・クラスなど。

集団というのが曲者で、生涯ただ一つの集団に属せばいいのかというとそうでもありません。

家族という集団、学校という集団、友達という集団……様々な集団に重複して属しながら、私たちは日々を生きていきます。

集団は様々な人々からできていますから、軋轢もあります。時としてその中のどこかで、理不尽で耐えられないような出来事を経験したり、疎外感を抱いたりする。心身ともに裂かれそうな時や、すでに疲弊しきってしまっている時集団から距離を置くことは身を守るための「戦略的な撤退」として必要であると思います。

 

 

■ 「どこへ逃げる」のか

  逃げることに対して否定的な意見を持つ人たちの言葉の中に「逃げて全部うまくいくと思っているのか」というものが度々登場します。身を守るために逃げてきた人、避難してきた人たちにとっては非常に酷な言葉であると思います。そして同時に、その中にほんの少し真実が潜んでいることもあると思うのです。

もちろん、この言葉だけを取り出して全肯定しようという意味ではありません。

 

■  逃げた先に完璧な楽園はあるのか

  私も経験があるのですが、苦しい場所から逃げた先にすべての救済があるように感じてしまうことがあります。

逃げた先にある場所は、自分を丸ごと受容してくれて、自分を傷つけることはなく、まったく変わらないまま自由に振舞うことができる。そんな楽園のような場所だと思い込んでしまうことがある。そして、抱いた理想と、その場所が合致しなかった時なんだかひどいショックを受けてしまう。そしてまた次の楽園を探してあてもない旅に出てしまう……。

人と人とが交流する以上、自分の言葉や振る舞いが自覚なく誰かを傷つける可能性はあります。自分にその意図がなくても、誰かを怒らせてしまうこともあるかもしれません。

どんなに素晴らしい環境であっても、全く少しも心揺らがずにいられる場所はあるのでしょうか。

心穏やかに過ごせる場所は、全くすれ違いのない完璧な場所というわけではないのだと思います。

 

 

■  それでも、逃げることは間違いではない

  楽園などないのだから、逃げてはいけないのか?それに対しては、きっぱりと違うと言えます。

不必要に傷つけられることのない場所に身を置くことは、生き延びるために必要なことです。

私が言いたいのは、安全なところに逃げ延びて、落ち着いて、そしてその場で必要なものに目を向けてほしいと思うのです。

目を向けるものは、人にとって少しずつ違います。自意識であったり、批判との向き合い方、人との距離の取り方、あるいは自己主張のし方、様々なものがあります。

心身ともに疲れ果ててしまっている時には、その疲労を解消させることが優先されます。

危険を感じて安心できない集団では、身を守るのに精一杯で、自分の内面に目を向けていくことまでは余裕は持てないと思います。

だから、たどり着いた場所で十分に落ち着いて、力が湧いてきてからでいいと思います。

あるいは、周りの影響を受けない避難場所で心身の回復を優先させるのもいいと思います。

次の項で書きますが、疲れ果ててしまった時に、自然の多い場所などで一時暮らすという、湯治の役割ですね。

そうして歩き出して、次の場所を探してみたくなった時、自分に向き合ってみる必要が出てくる。

言い換えれば人と人と関係の間で浮き出してくるものを自分に返していく作業ともいえるのではないでしょうか。

 

■「自分探し」とはなんだったのか

  数年前、「自分探し」という言葉が流行したのを覚えています。「本当の自分」を求めて、海外を一人旅したりすることがブームとなりました。

私は、「自分探し」とは、自分の内なるものに目を向けるということだったのではないかと思っています。自分の皮を玉ねぎのように剥いていって、中核に見たこともない素晴らしいものが眠っているという意味ではないと思うんです。

自分の中にある、様々なものを再度自覚し、これからの行動を組み立てていくことが「本当の自分探し」の意味なのではないかなと考えています。だから、別に海外に一人旅することが必須ではないし、何か特別な準備が必要なことでもないと思うのです。

  それから、もう一つ。私が中学生くらいの時に、「不登校になったら小笠原に行け」という言葉が一時的に流行しました。あと、「ハッピー・バースデイ」 という児童文学が流行ったのもこの頃です。心に傷を抱えた少女が自然の中で再生していく物語でした。

この流行から「自然がすべてを癒す」というような考えが広まりました。しかし、果たして癒したのは「自然」だったのかは疑問です。

誰にも傷つけられることのない環境に、しばし身を置いたこと、それ自体に安心を与える効果があることは確かと思います。

むしろ、その先で、自然の中で安心を取り戻した彼や彼女たちが、自分と人々との関わりについて考え、再び関係を築いていったことにこそ注目すべきなのではないかと思うのです。 

ハッピー・バースデーで描かれていたのも、その部分だったと記憶しています。

自然に囲まれた場所で様々なことを考え、自分について考え、時には自分の抱えるネガティヴなものにも直面して、そして得たものがあったのではないかと、私は考えるのです。

 

■専門家の力も借りてみる

自分と向き合う。そのために専門家の力を借りるという手もあります。

世の中にはそのために作られた技法がたくさんあります。

 

自分にとって心が落ち着いて過ごせる場所や環境で、時にネガティヴなことに直面したり、感情が揺らぐことがあっても過ごしていけること、それが、その先での次の目標になってくるのかなと思いました。その中には、無理しない範囲を見極めることなども含まれています。

 

■  せっかくなので読書感想文も提出してみる

 

 

ここから始まる一連のツイートにも書いてあるのですが、この漫画はまさに一時の「逃げ場」と、そしてその先にあるものを描いています。

楽園を夢見てそこに閉じこもる者、偽物の楽園を出て自分と向き合う者、とりあえず衝動的に出て行く者。向き合わざるをえなくなって迷う者……。もしかしたら、どの登場人物も自分の心の中にいるのかもしれません。

 

 

文章を学ぶ前に~会話と文章~

お話はとても流暢なのだけれど、作文になると固まってしまう。自分が最も伝えたいと思ったことがうまく書けない。テーマ作文で、テーマを取り違えてしまう。

こういったことで困っている子どもたちは意外とたくさんいます。

この記事では、なぜ作文は難しいのかということについて書こうと思います。

 

■ 話せるけど書けない?

  あなたの友人に、長く英語圏に住んでいる友人がいるとします。

その人が、ある日こんなことを言いました。

その友人には書字の困難はないものと仮定してください。

 

「私、英語は話せるんだけど書けないんだよね」

 

さて、この一文を読んで、みなさんはどのように考えるでしょうか。

おそらく、そこまで不自然に思う方はいないのではないかと予想されます。

文法に則って書く文章と、話すときに使う言葉に違いがあることを経験の中でわかっています。

英語の習得を目的とせずに海外に行った人の場合、日常的な会話のなかで英語を学習する機会が多いだろう。そのため、書くことよりも会話の習得が促進されるのはそれほど不自然なことではない、と考えるわけです。

 

■ ちょっと見方を変えてみて

 これは、はたして外国語に対してだけ言えることでしょうか。

個人差はあるかもしれませんが、私達が本格的に文章というものに触れ、それを自分で読み書きするのは小学校に入学してから。しかも、一人で文章だけの本を読めるようになるのはおおむね10歳くらい。絵本と児童文学の中間くらいだろう「かいけつゾロリ」でも対象となるのは中学年の児童からだそうです。

つまり、子どもたちにとって、もっとも身近な「言葉」というのは「読み書きする言葉」ではなく「話す言葉」だといえると考えられます。

 

■ わたあめとブロック

では、読み書きする言葉と話す言葉はなにが違うのでしょうか。

私は、話し言葉は「わたあめ」書き言葉は「ブロック」

そんな風に考えています。

 

・ わたあめ

まずは、話し言葉。どこが「わたあめ」なのでしょうか。

ちょっと例を書いてみます。

 

「私ってさあ、猫アレルギーなの知ってるよね。昨日、学校帰りに猫見たんだ。白いの。ふわふわ。すごいかわいくてさ、連れて帰りたかったんだけど、無理じゃん?」

 

特に読解に苦労することはないかと思います

「帰り道で猫を見つけたのだが、猫アレルギーなので飼うことができない」という内容です。

この人は、猫がいかに可愛かったかを説明しています。

「昨日、学校帰りに見たんだ。白いの。ふわふわ。すごいかわいくてさ」

「白い」、「ふわふわ」、「すごいかわいい」、いずれも猫を説明しています。

猫という単語を後ろから補足して説明しているんですね。

「連れて帰りたかったんだけど、(私ってさあ、猫アレルギーなのは知ってるよね)無理じゃん?」

そして「無理じゃん?」の理由は、冒頭の「私ってさあ、猫アレルギー……」と関連しています。つまり、前で言った部分を関連させて理由を説明している。

 

会話では、物事の理由や補足の順番に規則性がほとんどないのです。

この場合なら、「猫を見た」という中核の話題に、前から後ろから、自由に情報を付け足しています。そして、情報ははどんどん大きくなっていく。ここが「わたあめ」に似ています。

わたあめは、溶かした砂糖を細い糸状にして割り箸にまきつけて作ります。

この割り箸が話題・会話のテーマだと考えてください。ここでいえば、「猫について」ですね。それに、くるくると細い糸状の情報が巻き付いていくイメージ。細い糸ですから。後ろのものが前のものにくっつくこともありますし、よじれて前後の区別なく、くっついていくこともあります。そうしてふわふわ、ふわふわと膨らんでいく。

とはいえ、あまりに巨大なわたあめになると、情報の修飾の関係がわからなくなってしまうこともあります。どうにも容量を得ない、ややこしい話をする人のわたあめはとてつもなく巨大。話は長いけれど、飽きない話ができる人は、一定の大きさになると新しい割り箸(話題)を用意して、いくつものわたあめを作れるようなイメージを私は持っています。

 

・ ブロック

 一方、書き言葉は「ブロック」だと言えるかもしれません。

「私ってさあ、猫アレルギーなの知ってるよね。昨日、学校帰りに猫見たんだ。白いの。ふわふわ。すごいかわいくてさ、連れて帰りたかったんだけど、無理じゃん?」

これを、特に言葉の順序を変化させずに書き言葉に直してみます。

「私が猫アレルギーなのは知っているかと思います。昨日、学校帰りに猫を見ました。白いです。ふわふわです。とてもかわいくて、連れて帰りたかったけれど、無理でした」

うーん。なんだか不自然。ちょっとぎこちなさをかんじませんか?

「あっ、こういう作文見たことある」という方もいるかもしれません。

また、「小さい頃こういう文章を書いたなあ」と思い出した方もいるかもしれません。

では、これはどうでしょうか。語順を入れ替え、ちょっと主語を補足してみます。クラス全体に向けて発表する作文という体裁で書いています。

「クラスのみんなは、私が猫アレルギーなのは知っているかと思います。昨日、私は学校の帰りに猫を見ました。猫は白く、ふわふわしていました。とてもかわいくて、連れて帰りたかったけれど、猫アレルギーがあるので無理でした」

いかがでしょうか。ずいぶん変わり、理解しやすい印象になったと思います。

やったことは修飾の順番を守ったことと、主語の補足だけです。

文章では、基本的に「白い→猫」「ふわふわの→猫」という修飾の順番に決まりがあります。(「」内の話し言葉などを除く)

そして、主語と述語は対応しなければなりません。

ここが、レゴブロックのようなものと似ています。ブロックの凸と凹が噛みあうものしか積むことはできないのです。わたあめよりもかっちりとしたものが出来上がります。

 前回の記事に書いた「伝えるための文章」という点においても、ここは重要です。

 

■ ブロックの遊び方を知らない子がお城を作れるのか問題

 今までレゴで遊んだことのないお子さんに、いきなりレゴを1000ピース渡して、「シンデレラ城作って」と言ったらシンデレラ城は完成するでしょうか。

ものすごいイメージ力と直感をもった子であればできるかもしれませんが、殆どの子が無理だと思われます。

しかし、レゴの原理(凸と凹をくっつける)とお城の作り方の紙があれば、いつかは完成します。

文章もこれと同じで、構造を知り、設計図を見ることができればもっと楽に作れるようになると思います。

 ところが、「本をたくさん読めば文章が書けるようになる」「テレビやネット、漫画などの受動的なメディアを制限すれば文章が書けるようになる」「作文テンプレートは子どもの自由な発想を奪う」というような意見がよく見られます。

個人的な意見としては、そこじゃないんだけどなあ、という感じです。

まずは、文章の基本構造を子どもたちが知り、話し言葉とモードを切り替えられるようになることが最初じゃないかと思います。そして、それが自分の書きたいことを書けるモチベーションに繋がってくれるといいなと思います。

この基本が身につくと、読書からの文法や語彙の吸収率にも変化が出てくると思います。

くだけた文体で書かれている小説も、ライトノベルも、学術書も書いてある文章の構造の基本は変わりません。ただ、魅力的になるような小技やエッセンスが散りばめられていることにも気がつけるかと思います。