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みんなネガネをかけている

臨床心理士と小さな塾の先生をやっているOQCの雑記帳。twitterでの発言や考えたことなどをまとめています。

「逃げる」ということ

 

 ■ 夏休みが終わった
今年も9月1日がやってきて、そして、少し経ちました。暑さは8月と変わらないけれど、吹く風がどこか秋の気配を漂わせている。
気がつけば田んぼの稲には穂がついていて、雲が高くなった。空の色も真夏よりは少し薄くなって、蝉の姿よりも飛び交わすトンボの方が目につくようなっている。そんな時期です。
私は学校と呼ばれる所を卒業して随分経ちましたが、この頃になると焦りのような、何かに無理やり背中を押されるような居心地の悪さを感じます。冬から春に移り変わる時、春から夏に移り変わる時よりも緊張を感じるような気がします。

この時期は同じような気持ちを抱えて学校に行ったかもしれない子たちのことを考えます。

■ 逃げるということについて
さて、そんな8月の終わりころ、Twitterでは「逃げる」ということについて様々な意見が交わされていました。


 

この記事やTLに流れてくる様々な人の経験や、意見を見て、そして考えながら、私もこれについては書きたいことがありました。

ただ、それをそのまま文字に載せてみたときに、どうにもしっくりこない感じがあって、時折こねくり回したり、寝かせたりしながら一週間が過ぎていきました。

 

■「何から逃げる」のか

  まず、私が考えていたことの一つとして「何から逃げる」のかということがあります。

ほとんどの場合が、集団から逃げるということになるでしょう。集団を構成する特定の個人ということもありますが、結果的には集団から逃げるという形になります。

人間は大小様々な集団に属しています。

もっとも大きな集団としては「地球内生命体」だと思います。わかりやすい例なら会社・学校・クラスなど。

集団というのが曲者で、生涯ただ一つの集団に属せばいいのかというとそうでもありません。

家族という集団、学校という集団、友達という集団……様々な集団に重複して属しながら、私たちは日々を生きていきます。

集団は様々な人々からできていますから、軋轢もあります。時としてその中のどこかで、理不尽で耐えられないような出来事を経験したり、疎外感を抱いたりする。心身ともに裂かれそうな時や、すでに疲弊しきってしまっている時集団から距離を置くことは身を守るための「戦略的な撤退」として必要であると思います。

 

 

■ 「どこへ逃げる」のか

  逃げることに対して否定的な意見を持つ人たちの言葉の中に「逃げて全部うまくいくと思っているのか」というものが度々登場します。身を守るために逃げてきた人、避難してきた人たちにとっては非常に酷な言葉であると思います。そして同時に、その中にほんの少し真実が潜んでいることもあると思うのです。

もちろん、この言葉だけを取り出して全肯定しようという意味ではありません。

 

■  逃げた先に完璧な楽園はあるのか

  私も経験があるのですが、苦しい場所から逃げた先にすべての救済があるように感じてしまうことがあります。

逃げた先にある場所は、自分を丸ごと受容してくれて、自分を傷つけることはなく、まったく変わらないまま自由に振舞うことができる。そんな楽園のような場所だと思い込んでしまうことがある。そして、抱いた理想と、その場所が合致しなかった時なんだかひどいショックを受けてしまう。そしてまた次の楽園を探してあてもない旅に出てしまう……。

人と人とが交流する以上、自分の言葉や振る舞いが自覚なく誰かを傷つける可能性はあります。自分にその意図がなくても、誰かを怒らせてしまうこともあるかもしれません。

どんなに素晴らしい環境であっても、全く少しも心揺らがずにいられる場所はあるのでしょうか。

心穏やかに過ごせる場所は、全くすれ違いのない完璧な場所というわけではないのだと思います。

 

 

■  それでも、逃げることは間違いではない

  楽園などないのだから、逃げてはいけないのか?それに対しては、きっぱりと違うと言えます。

不必要に傷つけられることのない場所に身を置くことは、生き延びるために必要なことです。

私が言いたいのは、安全なところに逃げ延びて、落ち着いて、そしてその場で必要なものに目を向けてほしいと思うのです。

目を向けるものは、人にとって少しずつ違います。自意識であったり、批判との向き合い方、人との距離の取り方、あるいは自己主張のし方、様々なものがあります。

心身ともに疲れ果ててしまっている時には、その疲労を解消させることが優先されます。

危険を感じて安心できない集団では、身を守るのに精一杯で、自分の内面に目を向けていくことまでは余裕は持てないと思います。

だから、たどり着いた場所で十分に落ち着いて、力が湧いてきてからでいいと思います。

あるいは、周りの影響を受けない避難場所で心身の回復を優先させるのもいいと思います。

次の項で書きますが、疲れ果ててしまった時に、自然の多い場所などで一時暮らすという、湯治の役割ですね。

そうして歩き出して、次の場所を探してみたくなった時、自分に向き合ってみる必要が出てくる。

言い換えれば人と人と関係の間で浮き出してくるものを自分に返していく作業ともいえるのではないでしょうか。

 

■「自分探し」とはなんだったのか

  数年前、「自分探し」という言葉が流行したのを覚えています。「本当の自分」を求めて、海外を一人旅したりすることがブームとなりました。

私は、「自分探し」とは、自分の内なるものに目を向けるということだったのではないかと思っています。自分の皮を玉ねぎのように剥いていって、中核に見たこともない素晴らしいものが眠っているという意味ではないと思うんです。

自分の中にある、様々なものを再度自覚し、これからの行動を組み立てていくことが「本当の自分探し」の意味なのではないかなと考えています。だから、別に海外に一人旅することが必須ではないし、何か特別な準備が必要なことでもないと思うのです。

  それから、もう一つ。私が中学生くらいの時に、「不登校になったら小笠原に行け」という言葉が一時的に流行しました。あと、「ハッピー・バースデイ」 という児童文学が流行ったのもこの頃です。心に傷を抱えた少女が自然の中で再生していく物語でした。

この流行から「自然がすべてを癒す」というような考えが広まりました。しかし、果たして癒したのは「自然」だったのかは疑問です。

誰にも傷つけられることのない環境に、しばし身を置いたこと、それ自体に安心を与える効果があることは確かと思います。

むしろ、その先で、自然の中で安心を取り戻した彼や彼女たちが、自分と人々との関わりについて考え、再び関係を築いていったことにこそ注目すべきなのではないかと思うのです。 

ハッピー・バースデーで描かれていたのも、その部分だったと記憶しています。

自然に囲まれた場所で様々なことを考え、自分について考え、時には自分の抱えるネガティヴなものにも直面して、そして得たものがあったのではないかと、私は考えるのです。

 

■専門家の力も借りてみる

自分と向き合う。そのために専門家の力を借りるという手もあります。

世の中にはそのために作られた技法がたくさんあります。

 

自分にとって心が落ち着いて過ごせる場所や環境で、時にネガティヴなことに直面したり、感情が揺らぐことがあっても過ごしていけること、それが、その先での次の目標になってくるのかなと思いました。その中には、無理しない範囲を見極めることなども含まれています。

 

■  せっかくなので読書感想文も提出してみる

 

 

ここから始まる一連のツイートにも書いてあるのですが、この漫画はまさに一時の「逃げ場」と、そしてその先にあるものを描いています。

楽園を夢見てそこに閉じこもる者、偽物の楽園を出て自分と向き合う者、とりあえず衝動的に出て行く者。向き合わざるをえなくなって迷う者……。もしかしたら、どの登場人物も自分の心の中にいるのかもしれません。